2011年4月14日木曜日

タリーク スルタン 「オリエンタルのルーツを学ぶ」


アメリカの男性オリエンタルダンサータリーク スルタン。彼は、このダンスのルーツを学ぶべく多くの国を訪ずれ、多くのラクス・シャルキーの芸術家的オリエンタルダンサーに出会っています。タリークが、ツアーから得た洞察、経験をサロメのブログインタビューにて語っています。



サロメ:あなたは自身の勉学のためにこのダンスのルーツになっている国々を回って歩いているようですが、ツアーからどのような洞察を得、経験をしましたか?

タリーク:1988年に私 は始めてエジプトとモロッコを訪れました。この経験は私のダンスに対する認識と私自身、そしてこのダンスの発祥の地の文化に対する認識を変えました。当 時、アメリカでは多くのダンサーが「ハーレムガール」のファンタジーとステレオタイプ(型にはめた概念)を助長したり、どのプロップを使って踊るかと言う 事に意識をとられ、音楽の解釈とそれに合わせたダンスという観念を忘れているダンサーが多かったのです。エジプトスタイルのオリエンタルダンスは稀でし た。殆どの人がエジプトのレジェンド(伝説に残るような)ダンサーを見たり、聞いたりしたことがなかったのです。ビデオテープを入手することも非常に困難 でした。モロッコとアイシャ アリのビデオコレクションが非常に正確で本物のエジプトダンサーと中東、北アフリカの民族ダンスの資料でした。私はカイロでの一日目の夜 にソヘイラ ザキのパフォーマンスをナイルヒルトンホテルで見ました。彼女はグリーンのドレスにグリーンのスパンコール(シークエンス)でヒップベルトに はフリンジもティアラ(宝飾)も着いていませんでした。彼女は30ピースのオーケストラを従えていました。私はそれまでそのようなオーケストラを聴いたこ とはありませんでした。最も衝撃的だったのが、ソヘイラはアメリカのダンサーがやるような、男性客に対して誘惑的な態度をとったり、ベールを男性の客に巻 きつけたりというような事は一切しなかったのです。彼女はベール自体持っていなかったのです! 彼女はダンスフロアーの中心部に位置どると、優雅に自信に満ち溢れて音楽と共に踊りだしました。私は今までにこのようなダンサーを見たことがありませんで した。まるで王侯貴族が周りにいるような崇高さでした。彼女は美しく、エレガントで威風堂々としていて威厳がありました。彼女は真の芸術家であり、彼女の ダンスは最高級の芸術でした。


私 は更にラッキーな事に、ナグワ フォアード、シュシュ アミン、ナディア ハムディ、ルーシーのダンスも見ることが出来たのです。ダンサーは独自のスタイ ルを確立していましたが、全てのダンサーに共通して言えたのは、全員が動きで音楽を表現していたことです。彼女らは、自分が知っている動きを全て見せなけ ればならないとか、“トリック(巧妙で特殊なわざ”)を使って観客を感動させようとかは全く考えておらず、ただ音楽の雰囲気と感情を表現をしていました。 それは感情的な表現で、運動表現ではありませんでした。ダンサーは自分の個性をダンスで表現しているのでした。そうは言うものの、このことを理解して自分 のものにするまでには、何度かエジプトに訪れてショーを見て、いくつもの観察を重ねました。これは私のダンスを変えました。私は以前はテクニックを重視 し、カリスマ性やパッション(情熱)をステージ上で見せていました。私は今は感情表現がテクニックと同様に非常に重要なことだということを理解していま す。

この旅で私はステージ上で 見るダンスは実際は一般の人々が家庭などで踊られているものがベースになっていて、その自然な環境の中では男性も女性も同じようにこのダンスを楽しんでい るということを実感し、認識できました。 ある日、友人達が私を初めてディスコに連れて行ってくれましたが、私と同じ位、もしくは私以上に上手に踊る男性 が沢山いました。当時、フェミニン過ぎるようで避けていた動きがあったのですが、様々な男性がそういった動きを取り入れて踊るのを見て、私は自分のパーソ ナリティーを失わずにしかも女性ぽくなく動きが出来ることを彼らから学びました。更に私は彼らのダンスを見て新しい動きのコンビネーションも学び、自分の ムーブメント ボキャブラリー(動きの種類)に追加しました。私は男性と女性が日常生活でどのように振る舞い、それがダンスにどのように表現されているか と言う事に特に注目して観察しました。そして、これがしばしば言われる「エジプトのフィーリング(感情)やエッセンス(本質)」です。

ルクソールで私はガワジー のバナト マジン姉妹を見ましたが、これは想像を超えるもてなしでした。数年にわたりガワジーについて数多くの本を読み、ビデオを見てきて、今実際にそれ を見るチャンスが与えられたのです!彼女らはガワジーの最後の生き残りでした。私は失われていく文化と歴史を目撃したのです。私はこの時に行って見る事が できてよかったと本当に感謝しました、それと言うのも数年後に彼女達は引退したからです。私の2度目の旅の時は姉妹の中の一人だけが踊り続けていていまし た。そして、キリヤ(姉妹の一人)がアハラン ワ サハランで踊っていましたが、もう伝統的な衣装は着ていませんでした。彼女と彼女の姉妹が一緒に踊って いるのを見るのはマジックを見ているようでした。

もちろん私のインスピレー ション(刺激を与えてくれる)であるオスマン バラッタのダンスも見、他のサァイディの男性のダンスも見ました。私はオスマンの本物のサァイディスティッ クダンスを見ました。私は彼の踊りを見る事により、男性もサァイディダンスで杖を使いながら腰を動かす踊りをすることを学びました。私は更にもっとも尊敬され ている振り付け師のマハムド レダやモハメッド カリールに会うこともできました。しかし、この旅のハイライトはモロッコ(先生)と私がモロッコ(国)に 行った帰りにマラケシュの「ダー アメリカン アソシエーション」でパフォーマンスをしたことでした。この旅で私の才能を認めてくれ、ダンスを続けること を励ましてくれた人々に出会えたことが大きな自信となりました。そのときからこのオリエンタルダンスは私の人生にとって、必要不可欠なものとなったので す。

エジプトやモロッコを訪問 したタリーク スルタン。自らの目でラクスシャルキのルーツ、文化に触れ経験から得られたオリエンタルダンスへの深い洞察は、タリークのダンスへの愛 情や表現力を更に豊かにしていったに違いありません。改めて、音楽の雰囲気と感情表現の大切さをタリークの経験より感じさせられます。

【文献】SALOME: http://www.orientaldancer.net/ (翻訳:Naomi Takahashi)

【関連記事】